次の写真は、2018年7月30日に天草の潜伏キリシタン関連遺産が世界遺産に登録された記念に発布された「崎津三宗教の御朱印」の調印式の記念写真です。仏教の代表者、キリスト教の代表者、神道の代表者がカトリック崎津教会の聖堂で一緒に写っています。
崎津集落が世界遺産に登録された理由は、江戸時代のキリシタン禁教令下で誰一人密告をする人がいなかったため、結果として幕末に5000人以上の人たちが潜伏キリシタンとして生きながらえた歴史があるためでした。
宗教の壁を越え、国を越え、民族を越えて尊い人の命を尊重する天草の人たちの歴史と精神文化がそこにあります。

天草には仏教の聖地の他に神道の聖地とキリシタンの聖地があります。天草八十八ヶ所霊場巡りは仏教の聖地だけでなく、神道やキリシタンの聖地も巡礼地に含まれています。
そのようなことから、宗派を越えてみんなが仲良くする巡礼という意味で「皆の宗の巡礼」ともいいます。


悲劇の歴史を乗り越えて
天草には、日本の他の地域にはない大きな悲劇の歴史があります。
それは、1566年に天草の地に宣教師ルイス・デ・アルメイダによってキリスト教が伝えられたことに由来します。
その当時、西欧は大航海時代で、世界中にキリスト教の伝道をしていました。同時に、大規模な貿易により巨万の富をスペインやポルトガルの商人たちは得て、国を豊かにしていました。
奴隷貿易や植民地支配もその一環でした。
一方、日本は戦国時代で、日本の国を統一するため戦国大名が権謀術数によりしのぎを削っていました。
天草島を治めていた五人の領主(大矢野氏、栖本氏、上津浦氏、志岐氏、天草氏)も時代の波にもまれ、ポルトガル商人との貿易による富国強兵策を進めると同時に、キリスト教も受け入れ、領主自らキリシタンに改宗しました。

しかし、時代は豊臣から徳川将軍の時代となり、キリシタンは禁教となり、キリシタンの弾圧と迫害が強くなりました。多くのキリシタンが暮らしていた天草では、特に厳しい弾圧が続きました。そして、1637年~1638年に日本史上最大の一揆「天草島原の一揆」が勃発します。
この一揆では、キリシタン弾圧に加え、新たな領主となった寺澤藩の厳しい年貢の取り立て、さらに豊臣方について浪人となった武士たちが天草、島原に密かに逃れていたため、三重の要因が重なり、12万人の幕府軍に対して3万7千人の一揆軍が闘って全滅したのでした。
思想より命を重んじた天草の先人たち
一揆後、天草は徳川幕府の天領地となりましたが、250年の禁教令下、一人の密告者もなく潜伏キリシタンが存在したのは奇跡的でした。
潜伏キリシタンが暮らしていた、崎津、今富、大江、高浜地区では、漁や農作では、お互いにたすけ合いながら、仏教徒も神道の氏子も潜伏キリシタンも共生していたのでした。
当時、キリシタンの存在を密告すると一生楽に暮らしていけるだけの報奨金がもらえていたにも関わらず、貧しい天草の人たちはお互いのことを知っていながら誰一人密告しなかったのでした。
悲劇の歴史の上に培われた人の命を大切にする天草の先人たちの心は今も天草の精神文化として根付いています。
天草八十八ヶ所霊場巡りは、仏教の寺院だけでなく、神道のお宮、そしてキリシタンの聖地があるのはそのためで、通称「皆の宗」の巡礼といいます。